映画『ある過去の行方』公式サイト

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公開前、アスガー・ファルハディ監督へのテヘラン現地取材に合わせて行われたこのキャンペーン。Twitter&facebookに寄せられた質問の中から厳選した3名の方と、映画解説者中井圭さんからの質問を携えてテヘランへと飛び、ファルハディ監督から直接ご回答いただきました!

中井圭さんからの質問

この映画は、「行って戻る」という動作、導線を意識して演出されているシーンが多く、物語として語られることと同様に、画面が伝える心情や示唆が大きいと感じます。こういった画面上の演出をどのタイミングで考えられているのでしょうか。脚本執筆のタイミングから意識しているのか、教えてください。

この映画の中では、必ずすべての人物が一回以上、行って戻るという行為を行います。実は、この演出については脚本を書いている段階では、考えていませんでした。実際に演出を行ったときに、要するにこの映画は人間が過去にこだわりながらも、それでも未来に向いて歩きたいという二つの間で戸惑うということを描いた映画だから、誰もが身に覚えがあるこの気持ちを役者の動きの中でも見せようと思ったのです。でも、あまりにもあからさまにすることには躊躇しました。ですからこの(質問をくれた)方みたいに気が付く人もいるし、気が付かないままの人もいるのです。なんにせよ、すべての人物が過去から逃れられないまま、未来にも向かおうと逡巡する気持ちをそれぞれの動きの中で見せているのです。

(具体的にいつこの演出を決めたのかというと)実際現場に行ってリハーサルを行い、サミールの病院のシーンを撮ろうとしていたときです。そのときサミールは病室に入ろうとして、でも入らずに戻ってきます。廊下の奥まで行っては、また戻ってくる。そのとき私は思ったのです。この映画の中の人物は、サミールだけではなく、みんな過去と未来の間をさまよっているのだと。そこですべての人物の動きの中に、意図的にこの動きを取り入れたのです。それは、まるで自分の過去に何か忘れ物をしているかのように過去に拘っていたり、過去から逃れたいのに離れられないというような状況を表しています。例えばクリーニング屋で働いている女性、ナイーマにしても、クリーニング屋を出るんだけれど戻ってくる。すべては、演出の中で生まれたことなのです。


今までの作品の中で、私の映画のキャラクターは、必ずどこかの時点で二つの道の間で迷うのです。どの道を行く方が正しいのかと迷う。必ず、どの作品にもそんな局面があります。この『ある過去の行方』を撮る前に私は考えました。人はある時点で二つの道の間で迷うのではなく、今まで歩いてきた道は、本当に正しかったのかと思い悩むものなんですね。正しかったのか、間違っていなかったかって。すごく不安になるときがあると思うのです。だから『過去』に戻ったらここをやり直したい、みたいなところが、みんなどこかにあると思うんです。作品の中でそのことを描いたのです。

ファルハディ監督の映画は一見絶望的なようで希望の兆しも見えるラストシーンが印象的です。ご自身の映画はハッピーエンドだとお考えですか? 

(総合映画情報サイトオスカーノユクエ管理人)

私は、自分の映画がハッピーエンドだとは思っていません。ただし、私は映画を観終わって映画館から外に出て行ってからも、観客の頭の中ではストーリーはまだ続いているものだと思います。私の描き方としては、悲しみやすごく複雑な気持ちを描いてはいるんですけれども、そんな風に映画が終わった後、頭の中でストーリーの続きを思いめぐらしていくと、どこかで希望が見つかる、そんな描き方をしているんです。

作品には、ファルハディ監督ご自身(生活史)がなんらかのかたちで現れていると思いますか。また、それは作品にどのように現れますか。そして、それはなぜだと考えますか。

三上さん(女性)

『別離』を観た方々からこのような質問をたくさん受けました。みなさん私が離婚したり、そういう経験をしたうえで、この映画を撮ったのかと質問されるんですけど、私はとてもハッピーな家庭環境を享受しています。子どもたちと妻と…仲良く暮らしています。自分の直接的な経験じゃないんですが、普段から周囲の人の話しをよく聞きますし、そんな中で自分の住んでる社会でどういうことが起きているのかも耳にすることになります。そこから着想を得て作品の中に入れるのです。自分の社会の中で起きていることっていうのは、無意識のうちに不安に思ったり、考えているから、それをテーマにするんですね。今まで作ってきたどの作品の中にも、無意識のうちに気にかかっていることが必ず入っています。

ファルハディ監督が、初めてイランを飛び出し、パリを舞台に描いた物語。
冒頭、空港で再会し、車に乗り込んだ時に、アーマドが花束を後ろの座席に置く場面、あ~やっぱりイランの人だな!と思った瞬間でした。イランでは通常、出迎える側が花束を持っていきますが、その直前の再会シーンで二人のどちらの手にも花束は見えず・・・。この花束、いつどちらが用意したのでしょう? 小さなことですが、どうしても気になっています。また、別れるための再会なのに花束?という声もイラン人から聞きました。この辺りの違和感をどうお考えですか。

景山咲子さん
(日本イラン文化交流協会 事務局長&シネマジャーナル 編集スタッフ)

最初のカットでうっすらとマリーが花束持っているのが見えますよ。そして、そのあとはバックシートにアーマドが花束を投げるように置くんですけれど。マリーが手に持った花束をアーマドが出てきたとき渡そうとし、アーマドは受け取ろうとする…最初そんなシーンを想定したのですが、この二人の関係は終わってしまっているので、そんなシーンを見せてしまうと、もしかしたらこの関係は元に戻せるんじゃないかみたいなイメージを観客に与えてしまう。だから撮りたくなかったのです。その代り、そのすぐ後で、ほんとに2カットくらいでそのシーンを終えて、一応花束を持ってきたんだけど、でも後ろに投げている。つまり、その関係はもう壊れてるってことなんです。

さらには急遽発動したWOWOW「映画工房」とのコラボ企画により、同番組師出演者である斎藤工さん、板谷由夏さんのお二人からの質問への回答が、WOWOW「映画工房WEB版」にて絶賛配信中です!

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