映画『ある過去の行方』公式サイト

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『ある過去の行方』×アミール・ナデリ監督スペシャルトークイベント@新宿シネマカリテ

公開6週目となった5月某日、前日より公開となった立川シネマシティで、映画をこよなく愛する中井圭さんと松崎健夫さんのお二人をゲストに迎え、本作を徹底解剖するトークショーを開催しました!その全貌をレポートいたします。
途中ネタバレも含みますのでご注意を。(以下敬称略)

「過去」についての映画なのに、「過去」を描かない映画

中井:
この映画というかアスガー・ファルハディの作品というのは基本的に大好きで。見た直後にも健夫さんと話をしていたんですけど。これ映画を作る人の教科書になるんじゃないかって話もしていて。すごく緻密に作られているし、画面から語りかけてくるものがものすごく細かくちりばめられていて。物語を追っていけば物語はわかっていくんですけれど、(それとは別に)ちゃんと画面を見ていれば話がわかるっていうふうにね、設計されているところもほんとにうまいなっていうふうに思ったんですけど。
松崎:
この監督の『別離』とか『彼女が消えた浜辺』とかの過去作もそうなんですけど、話だけ追っていくと、たんなる人間ドラマというか人間の確執を描いているっていうことですよね。でも、それだけだと人によっては共感する人がいないとか、いろんな人物がいすぎて誰に感情移入すればいいのかわからないってことがでてきてしまう。でも実は、その誰に感情移入したらいいのかわかんないってこともじつはこの人の狙いじゃないかと僕は思ってて。例えば、世間一般の世の中みたときに、いろんな人いるじゃないですか。いろんな考え方の人がいるから、この映画って、普通の、例えば単純なハリウッド映画なんかの脚本の作り方からいくと良い人と悪い人とか、敵対する人と主人公になる人がいて、その対立構造とかそこから生まれるものを乗り越えていくっていう物語にするんだけど、ファルハディ監督の場合は、いろんな考えの人をわざと存在させているんですよね。だから人によっては、あ、この人は共感できないけど、この人の言うことはわかるとか、この登場人物のなかだったらこの人に考え方近いんじゃないかなってなると思うんだけど、それは世の中がそうだからってことで。それを毎回描いている監督だなと思いました。
中井:
そうですね、それとこの人がほんとにすごいなと思うのは、日常生活を軸にしているところ。緊張感を保たせながら描いていこうとすると、なにかしら大統領が飛行機で爆破されそうになってるとか、まぁそういう設定とかあるじゃないですか。
松崎:
逃げてるとかね。
中井:
そうそう、たまたまそこに居合わせたとかね。そうじゃないんですよね。ごく、われわれの日常生活の延長線にあるようなことなのにも関わらず、2時間以上全く飽きる瞬間が来ない、それって、映画の技術だと思っているんですよ。安易に、例えば誰かを殺しましたとか、そういうことではなく、ちょっとしたことで、例えば子供の動きひとつとってみても、それをもとに「あれ、なんかおかしいな」ってことを観客に思わせることによってサスペンドしていくっていうところのセンスというか技術が本当にうまいと思いますね。彼の過去の作品もそうじゃないですか。
松崎:
この人の最大の特徴って徹底的なある事象を全く描かないということなんですよね。だから今回この映画で言うと、なんでこの二人が仲悪いのかって言うことは全然描かれない。今、現在しか描かれなくて、観客が推測していかなきゃいけないじゃないですか。実はこれは過去の映画もそうで、『別離』もそうですよね。冒頭くらいに事件が起こるんだけど、誰も目撃していない、当事者しか見ていないから、本当に何が起きたかわからないっていう風になってますよね。『彼女が消えた浜辺』でも、なぜこの女の子が消えてしまったのかっていうのは、みんなそこにいたはずなのに誰も見ていない。そしてさらにファルハディ監督が、脚本を書いている映画があって『フライト・パニック~ペルシア湾上空強行脱出~』って(DVDを見せる)これ飛行機が墜落してるジャケットになってるんですけど、実際は家族の映画だっていうね。ちょっとびっくりするんですけれど。これも結局銃が発砲された瞬間に、銃声は聞こえてるんだけど、何が起こったかわからないっていう風に描いてるんですね。で、それはなんなのかっていうと、我々が普通に生活しているときに、何が起こったかっていうのは、本来は目の前にある事象しかわかんないはずじゃないですか。でもそれを、テレビとかで例えばワイドショーのニュースとか、なんでもいいんですけど、情報から推察していくっていうふうにして実は生きていて。自分の家族の中でいざこざがあったとか、目の前で起きてる事象については目にしてるけど。たとえば隣の家で、とか友達に何かあったっていうのは、実は伝聞でしかないわけです。そのようにして我々は生きているっていうことをメタファーとしてやるためにこういう物語の構成にしているということじゃないかなと思うんですよね。
中井:
そこにこそリアリティがあるんであって。我々は実は俯瞰で物事を見てるわけではないじゃないですか、日常生活において。そのことも含め、要は日常性っていうものが映画と我々の地続き感につながっているということですよね。そういう風に描くことによって、何が魅力かっていうと自分で考える余白を埋めるって言う行為と、あと余韻の問題が大きいと思うんですよ。例えばね、今公開している『チョコレート・ドーナツ』もある事件が起きるんですけど、その決定的な瞬間は描かないんですね、要はその感情のピークの後を描いているんですよ。要はその人間の感情のピークの後を描く方が余韻を残して観客の心の中に残り続けるというような演出をしてる。そういう風な意味合いでも、実はその事象っていうものを明確にしないって言うことが、映画の演出的にはすばらしいってことはありますよね。
松崎:
最近映画評論でも言われる、直接的に描くって言うのがどうかっていう議論は今回おいとくにして、例えば我々が実生活を生きていて、誰彼が亡くなりましたと訃報を受けてお葬式に行くときは、おそらく死んだ瞬間を見てる人っていうのは、ごく一部の人以外ほとんどいないわけですよ。でもすごく親しい人だったら、その人の過去のこととか思い出して、葬式のとき涙があふれるってことがあると思う。この監督がやっているのは同じことで、その場にいなくてもそれまで積み上げてきた演出によって画面を観ていると、この映画だったら彼らが家族に対してどういう感情を持っていたのかってことを思い図る、考えられるようになってる。映画の手法で一番わかりやすいのはフラッシュバックって言って回想シーンてあるじゃないですか。過去に戻って昔の事を思い出すっていくらでもあると思うんですけど、この監督って一切しないんですよ。
中井:
しないすね!
松崎:
必ず現在の時間の進行に合わせてやっていくっていう、その決まりを守るという。我々が映画を観るときにスクリーンの中に刻まれている時間を同時進行ではないんだけれども、同じように過ごすっていうこのことが、実は共感するポイントになってるんじゃないかなって思ったんですよね
中井:
この『ある過去の行方』なんて特に、まさに過去の話をしているんだけども、過去を一切フラッシュバックで見せないって言うのは、やっぱりすごい逆にうまいというかね。
松崎:
原題はほんとに『THE PAST』(注:英題、原題は“le passé”)って過去ってタイトルなのに、過去を描いていないっていうね。そこが、監督がほんとうに演出として意図したいところじゃないかなって僕は思うんですけれど。

画面に演出をちりばめているのは、観客を信頼しているからこそ

松崎:
映画の冒頭のシーンって、優秀な監督であればあるほど、そこに意味を込めているものなんです。この映画はこういう映画ですよっていう宣言をしているんですね。冒頭、空港でふたりがガラスの向こうと手前側で呼びかけあってるんだけど声が聞こえないっていうシーンがありますね。つまりこのふたりは意思疎通ができてませんっていうことを冒頭で宣言してるってことなんですね。
中井:
この映画はディスコミュニケーションについての話ですよっていうのをどあたまで画で宣言してるんですよね。ベタな映画だと最初から言い争ってますっていうようなところから入るかもしれないんだけど、そうじゃなくって、ガラス越しの数秒でもう示唆している。
松崎:
ちなみに過去の2作品でも『別離』だと、最初に家族のパスポートがコピーされるところがあって、二人が別々に座っているっていう。もう離れ離れになってますってことを示唆してたり。『彼女が消えた浜辺』だとトンネルのシーンから始まるんだけど、誰が誰だかわかんないんですね。そしてこの話は、彼女が誰だったかわからないっていうミステリーになっているっていう。
中井:
声が届かないシーンをこの後も重ねてますし、それと、関係性にしても、この映画の主要な登場人物3人いるじゃないですか。映画を観た印象で言うと、イランから来た人(マリー=アンヌの元夫、アーマド)がね、一番まともやな、みたいな感じさせると思うんですけど。でも実は3人とも不完全ですよっていうのを画面の中で示唆しているんですね。それはどういう風にかっていうと、例えば冒頭で(アーマドを)迎えに行ったマリー=アンヌが、駐車場からバックで出ていくシーンがあるじゃないですか。何か飛び出してきて、急ブレーキを踏むっていう。あれがまずひとつ。その後、アーマドの運転する車でふたりで家に向かう途中、道を間違えるんですね。そして今度は、サミール(マリー=アンヌの現在の恋人)と一緒に道路を歩いてるときに、マリー=アンヌが横断歩道を渡ろうとして危ないってなる。つまり全部、登場人物のミスですよね。人間のミスっていうものがそのとき一緒にいる人との関係性ってものを示唆する構造になってる。もしふたりでいる時に道を渡れる、うまく発進できていることであれば、関係性がきちんと成立しているってことなんだけど。ここでは逆にふたりでいる時に何かが起きてしまう、つまり、うまくいかないってことを示唆している。映画を観ていると何となく違和感を感じるんですけど、このアスガー・ファルハディって天才なので。ちょっとなんか違和感があるかなっていう画には全て何かしらの意味が入っていると思ってて間違いないと思うんですね。
松崎:
僕はもう一点あげると、この映画でこのふたり(マリー=アンヌとサミール)が住んでいるところでリフォームをしてるじゃない。リフォームってまさに修復するってことですよね。だから修復するってことが絶対メタファーになっていると思うんですよね。それに対してアーマドのスーツケースは壊れてる、これ関係性が壊れてるってことを表したいんだと思うんですよ。さらにリフォーム中でペンキを塗っているけど、ペンキを塗るっていうのは、やっぱりさっきの過去の話しにつながると思うんですけど、前あった壁を塗りつぶすって過去をなしにするってことを言いたいんじゃないかなって思って。それを新しい男が塗ってるっていうのがやっぱり意味があると思うんですよね。
中井:
ペンキに関してはもうひとつあって。塗ってるけど、ペンキが乾いてないじゃないですか。あれがポイントだと思うんですね。つまり、それって要するにマリー=アンヌの心情としてはですよ、サミールと付き合っているんだけど、アーマドに対する気持ちがまだ残ってますよと、いうことを示唆しているんじゃないかと思ってて。なぜかというと、乾いていないペンキが、アーマドのTシャツについちゃうんですよ。つまりそれは気持ちが離れていませんよって言うことを、メタファーとして出してるんじゃないかなって観てました。
松崎:
そういう細部をみていると彼らの関係とか感情とかもね。仄かな、表に出ているセリフで言ってることとは裏腹の感情みたいなものも、実は読み取れるんじゃないかなと。
中井:
非常に細かいことをいろいろとやってて。たとえば、台所のパイプを直すシーンとかもあるじゃないですか。あのシーンも要はふたりの三角関係の状態のなかで、いがみあうわけじゃないけど、どっちがパイプを直すんですか、みたいなところで関係性を描写しているとか。直接的じゃないんですよ。動作、導線でそのふたりの心情、関係性っていうのを全て描いていると思うんです。例えば子ども、ファッド(サミールの息子)の立ち居振る舞いからサミールがどうかってことも感じ取れるし…。一方、この監督の子どもの置き方っていうのは、純粋な嘘のない存在としての置き方をしてるから、その状況に応じてその時の心情を子どもが象徴してるというのはすごく大きいと思う。だから一見あの子はわがままなことを言ってるじゃないですか。でも、それは彼はストレートにというか、その状況だったらそうですよねっていう気持ちを表現する役割なのかなと思いましたね。
松崎:
実はその子どもが持っている眼差し自体が、本質に一番近いものというふうにとらえると、大人が見たとき、ほんとに子どものわがままにしか見えないんだけど、もう少し俯瞰してみると、一番冷静に物事見てるんじゃないかっていう。それはほんとにさっき言ったように『別離』もそうだったしさっきの『フライト・パニック』とかもそうなんだけど、子どもの存在をそういうふうに描いているっていうことなんですよね。それにはイランていう国が起因しているのではと思う。イランでは、ほとんどの映画って政府の支援がないと、作れるんだけど、国内で上映できないわけですよ。この監督もイランから追い出された監督のことを擁護したりして政府からにらまれたりもしていて。イランで最も有名なアッバス・キアロスタミ監督もインタビューで言っていたんですが、イラン映画に子どもを主人公にした映画が多いのは、世の中の訴えたいことを子どもの立場に置き換えて描くことでしかできないからだと。だからこそ、そこにこそ本当に描きたいことがあるってことが、イランの監督の中にあるんじゃないのかなと思いますけどね。
中井:
なるほどね。要は文化的事情、政治的背景っていう踏まえてそういうふうに描写するってことですよね
松崎:
だからフランスに渡って来たときも、そういう特徴は残ったというか。
中井:
確かにイランの文化的背景、社会的背景っていうのをきちんと投影しながら書いてますよね。今回もね、移民の問題的なところも描いたりしてるし…。ひとつ言い忘れていたんですが、さっきのペンキの話!僕、今日は全部語り尽くす気で来てるんで。サミールの目がかぶれてたじゃないですか、赤く。あれってなんでかぶれたかっていうとペンキでかぶれてるわけですよ、つまりアーマドの存在、乾いてないペンキ…。サミールとアーマドの関係性がもやもやっとしている中で、ペンキのせいでサミールの目がかぶれてる…とすべてがつながっているっていうことを忘れないうちに言っておきたいなと。
松崎:
だからペンキひとつとっても、そういうこと全て語ってるって言うことですよね。
中井:
そう!そうなんです。普通の凡百の監督だったら、なんかこう状況を会話でなんとかして…
松崎:
まぁセリフで説明するよね。
中井:
ほんとに優れた監督って言うのは、そういうことをセリフで言ったりもするんだけど、それを画面の中でどう見せるかっていうのができてる人。それが僕ほんとに演出がうまい人なんじゃないかなっていう感触があります。
松崎:
映画とテレビの違いってよく言われるのは、映画って2時間、暗い中でじっと座って、自分で出て行かない限り観なきゃしょうがない。でもテレビを観てるときっていろんな外の音も聞こえてくるし、トイレも行こうと思ったら行けるし、冷蔵庫開ければ飲み物もあるし…っていう。逆に言うと映画をみるときは集中して画面を観れるってことがあると思うんですね。そのときにテレビドラマのようにセリフで説明するってことをしなくても、観客はもしかしても画で訴えてることからなんかしら感じてくれるんじゃないかなって挑戦を、映画監督ってしてるんじゃないかなと僕は思います。
中井:
観客を信頼してるんですよね。だから、説明を極力排除してでも画面の中できちんと盛り込んでくるっていう行為をとってる。
松崎:
だからこの映画って音楽もほとんどない。だってわれわれの人生、音楽かからないじゃないですか
中井:
BGMないっすよね。
松崎:
そういうやり方もあるんじゃないかなっていうことを試しているんだと思うんですけど。だから、あのシャンデリアが鳴ってる音が、音楽のように聞こえてきたりとか、逆に地下鉄がゴォって入ってくるときとかの音が拳銃の音に聞こえるような感じで、ちょっと不穏でぞっとするような、この後、不穏なことがあるんじゃないかってことを伝えてくる。そのまさにそのものの音ってことじゃなくて、なんとなく観客の深層心理にそういう音を投げかけてくることによってなんとなく不穏さを感じとらせていくんだけど、ご覧になってるみなさんにも心当たりあると思うんですよ。そういうところがこの監督の、イランの監督だけど、イランを飛び出して国際的に認められてきてる理由っていうのはその辺もあるのかなと。
中井:
この映画の公開前に、ファルハディ監督が直接質問に答えてくれる企画があって、監督に質問してみたんですけど。この作品の中で、動作として「行って戻る」っていう動作がめちゃくちゃ多いんですよ。例えばマリー=アンヌがサミールに実は娘がメールを送ってましたよって言いに行くじゃないですか。行くんだけど、言わずに帰ろうとする、でも思い直して戻るっていう行為をする。あとクリーニング屋で働いている女性が解雇されて追い出されるんだけど、途中で戻ってきて言いに来る…とか。あと、最後病院のシーンで彼が病室を出ていくんだけど、途中で思いとどまって、戻るっていう動作がある。「行って戻る」っていうことで描写したい心情としては、人間の意志っていうのはそんな明白なものではなくて、逡巡しているものですよってことを、作品全体を通して描写してるのかなと思って、監督に聞いてみたところそういうことで合っていたんですけど。監督が仰ってたのはみんなが気づくわけではないだろうけど、気づく人もいるだろうと思って(その演出を)入れてますと。これ順取りで撮っていないようなので、まずラストシーンを撮ってるときに、サミールが戻ってくるという動作を決めた時に、脚本段階では書いていなかったけれども、ほとんどの登場人物にこの動作をつけることに決めたようなんですね。娘も、お母さん呼びに行って、戻って来てますよね。
松崎:
監督がそう言ってるってことは、僕らが妄想のようにここで話したことを、監督はおそらく意図してるんだろうっていうことですよね。少なくとも僕らが考えつくようなことは考えて作ってるってことじゃないかな。

象徴的な冒頭と解釈をゆだねるラストシーン

松崎:
ラスト、ラジコンが飛ばないじゃないですか。あれは、行く末を表してるんじゃないかなって言う。何を語らずともあそこも不穏な感じがあるじゃないですか。飛んで行ったらこう、上を見上げて、なんか希望的な感じがあるけれども、飛ばないんですよね。そういうとこも、人によって解釈はいろいろあっていいと思うんだけれども、明らかにこうですよってことを監督は避けたいのかなと。というのはさっきも言ったように、世の中にはいろんな人がいて、いろんな考えた方があるので、こうですよって言ってしまったときには、なにかあったときに解決方法が一つしかないってことになっちゃう。そうじゃなくてそれぞれの解決の仕方があるんじゃないかっていうところで、監督としてはヒントというか自分の意思表示としてはラジコンが飛ばないということで示してはいるけれども、観ている方々にいろいろと考えていただきたいと言ってるんじゃないかなと僕は思う。
中井:
そういう意味で言うとね。僕はタイトルの出方もすごい象徴的だなと思うんです。タイトルが出る時に雨のシーンでワイパーでle passéって文字を消していくんですよ。で、le passéってなにかって考えたときに、迷いっていうものを拭っていく行為としてこの作品を描いているんじゃないかと。だから過去の全てに沈殿してる、迷いや逡巡を一度浮き上がらせて、ワイパーで消していくって言う行為をこの作品はやろうとしてますよって示唆している気がしてて。マリー=アンヌも「4年前に僕が何で出て行ったのか」 ってアーマドが言おうとしているときに「私は前に進むからもういい」って言いますよね。でもその先は、じゃあ彼女はこの先幸せになるのかって言うと非常に不透明で。なぜならばサミールの奥さんが意識を取り戻すのかどうかって描写が差し込まれると思うんですけど。
松崎:
解決するのかっていうところは描かれないというか、そういう要素を残しているところも、終わりは考えて欲しいって言うところじゃないかなって思う。
中井:
前作の『別離』もラストシーンがそうだったと思うんだけど。先行きは観客に預けるっていうことをやってるんじゃないかなと思いますよね。僕らが話した範囲でもこれだけいろんなものが埋まってて。これ去年の『ゼロ・グラヴィティ』に象徴されるんですけど、映画を物語だけで追っかけたり、役者さん見たさだけで観るんじゃなくて、画面をじっくりみてるだけで映画って面白いんですよってことを伝えておきたい。
松崎:
僕は、映画をあんまりつまんないって思わないのは、何もないなと思っても、ほんとはなにか描いているんじゃないのかと思いながら観ていて。実はなにも込められてないのもあるんだけど。そういうときは、こうしたらいいのになって思って観てると退屈することはないというか。
中井:
素晴らしい才能を持った監督が画面の中で何を表現してるかってことと、物語がシンクロしていくっていうことがこの作品の登場によってみなさんに体感いただいて。映画を楽しむヒントを持ち帰っていただけることが嬉しいなと思います。
松崎:
この監督、今なら日本公開まだ三作目ですから、今からでもコンプリートできます。受賞歴もだんだんステップアップしているところですから。いずれパルムドールを獲る日がくるんじゃないかと思います。あのとき立川で観たあの時の…となるかと。今後も注目していきたいですね。
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